広報くき 2023年4月号に掲載された、久喜市栗橋地区の宿場町の歴史を4回に渡って転載します。
最終回になる今回は、歴史の”こぼれ話”や栗橋周辺の史跡をご紹介します。

前回のお話
・利根川のほとりで育まれた歴史 栗橋宿①(宿場町「栗橋宿」の風景)
・利根川のほとりで育まれた歴史 栗橋宿②(発掘調査と宿場風景、日光街道)
・利根川のほとりで育まれた歴史 栗橋宿③(日光街道唯一の関所と房川流し)

栗橋宿 利根川のほとりで育まれた歴史④

関所・こぼれ話

大名の妻女は人質? 関所設置

3代将軍徳川家光は政治的統制のため、諸大名に対し一定期間江戸に住まわせる参勤交代を義務付け、江戸屋敷に妻女を置くことを課した。
「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」という言葉があるように、関所は江戸防衛上、武器類の流入と妻女が江戸から逃げるのを防ぐための危機管理だったといえる。

不正通行は重罪! 関所破り

享和元年(1801)9月、奉公先から大金を盗んで女と逃亡した男が、栗橋関所を避けて内国府間(うちごうま)村(幸手市)から船で川を渡り、関所抜けをした。

今市宿(日光市)で捕まった男は栗橋関所に送られて磔になり、この時大勢の群衆が見物に押し寄せたという。

一時的に橋がかかることも 船橋架橋

将軍が家康を祀る日光東照宮へ参拝する際、通行で最大の障壁となる利根川には船橋が架けられた。川に船を並べて上に板を敷くなど、架橋は大工事であった様子がわかるが、一般の通行は許されず、将軍が日光から戻ると直ちに撤去された。

松尾芭蕉(まつおばしょう)も通った「幸手を行ば 栗橋の関」

この句は、松尾芭蕉が奥の細道の旅から4年後の句会で詠んだ連句の一部。旅に同行した弟子の河合曾良(かわいそら)が残した「曾良旅日記」の元禄2年(1689)3月28日の記事で、「この日栗橋の関所通る。手形も断りも入らず」と、関所を普通に通行できたことを少し驚きをもって記録している。

栗橋宿周辺 まちめぐり -古きを訪ねて-

炮烙(ほうろく)地蔵 

市指定文化財。
関所破りで火あぶりの刑に処された者を供養するため建立されたと伝えられる。「炮烙」は素焼きの土鍋のこと。

会津見送り稲荷

市指定文化財。
江戸へ向かう会津藩士が栗橋付近で出水のため通行できず困っていたが、白髪の老人の道案内で無事江戸へ辿り着いた。老人は後に狐の化身だとわかり、この地に祀ったという。

吉田家水塚(みつか)

市指定文化財。
水塚とは、洪水に備えて盛土の上に建てた避難施設のこと。この水塚は栗橋宿で商家を営んだ吉田家の敷地にあったもので、利根川堤防強化事業により現在の場所へ移築・復元された。(公開日:毎週日曜日(年末年始を除く))

顕正寺(けんしょうじ)

栗橋宿を開いた池田鴨之介の墓(市指定文化財)がある。池田家は、代々栗橋宿の本陣(大名や幕府役人が宿泊する宿舎)の役を務めた。

神廣寺(じんこうじ)

栗橋宿を開いた並木五郎平の墓(市指定文化財)や人々の供養のために建てられた「六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)」(市指定文化財)がある。

「栗橋関所址(あと)」碑

関所廃止後、利根川橋の開通で渡し船が廃止されることに伴い建てられた。利根川堤防強化事業により、この場所に仮移転した。

日光御廻道(おまわりみち)

徳川将軍が日光へ参拝する際に、洪水で本来の街道を通行できない場合の迂回路として設定されていた。

八坂神社

栗橋宿の鎮守。慶長年間(1596~1615)の利根川大洪水の際、元栗橋(茨城県五霞町)から神輿が転覆せずに鯉と亀に囲まれて流れ着いたことに人々が神威を感じ、創建されたという伝承をもつ。

静御前(しずかごぜん)の墓

市指定文化財。
源義経の内縁の妻であった静御前は、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、伊坂で亡くなったとされる。静御前を偲ぶ祭りが毎年開催されるなど、今もなお地元の人々によって語り継がれている。

出典

出典:広報くき 令和5年4月号

リンク:
https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/koho/kuki/kohokuki_r05/koho202304.files/01-32.pdf

まとめ

全4回にわたって、栗橋宿の歴史にまつわる記事を転載しました。
広報くき 4月号では、栗橋宿にまつわる絵画を写真で公開。久喜市ボランティアガイドの篠﨑氏からのコメントも掲載しています。ぜひ上記リンクからご覧ください。

以上、すまいの相談窓口info編集部でした。